宇野千代の人生と文学
(文中敬称略)
宇野千代は明治三十年 (一八九七) 十一月二十八日、 山口県玖珂郡横山村三二九番屋敷
(のち玖珂郡岩国町大字川西八七七番地から現・岩国市川西町二丁目九番三五号)
で生まれた。
〈父は宇野俊次 (四二)、 母は土井トモ (二四)、 父母の姓は違っているが、
私は彼等の私生児ではない。 私が早く生まれたので、 入籍の手続きを怠っただけである。
土井トモは私を生んで、 一年半しか生きてはいなかった。
母が死んでからしばらくの間、 私は高森と言うところにあった父の生家へ預けられた…父の生家は父祖代々の造り酒屋で、
近在に聞こえた分限 (ぶげん) 者であった〉 (『生きて行く私』 昭五八・八毎日新聞社)。
俊次は安政二年 (一八五五) 七月二十九日、 宇野茂吉、 シンの子として玖珂郡高森村 (現・玖珂郡周東町下久原中市) で生まれた。 政介を長男とする七人兄弟
(弟三人妹二人) の次男である。 生母トモは明治三十二年七月十三日、 肺結核で死去した。 その翌年の三十三年五月に俊次は佐伯リュウと再婚したのだが、
このとき俊次四十五歳、 リュウ十七歳である。 リュウは順一郎、 ミヱの四女として玖珂郡川下村第八八七番屋敷で生まれた。
宇野千代の継母リュウは四男一女をもうけた。 千代の異母弟妹となる薫、 鴻 (ひろし)、 勝子、 光雄、 文雄である。 〈私の第二の母は…私と実子との間に、 誰の眼にも分かる間隔を、 はっきり置いていた…一番旨 (うま) いものを食べ、 一番さきに風呂へもはいった…昔から芝居や浄瑠璃に語られている継母子の物語とは、 全く反対の現象である〉 (『幸福を知る才能』 昭五七・八海竜社)。 千代はその継母の愛情に応えて、 異母弟妹にとっての 「小さなお母さん」 役を果たした。
〈五人の弟妹を一人一人おんぶしてはお守をした。 あ、 温いな、 と思うと、 背中がぬうっとあったかくなって、 またぺたっと冷たくなる。 考えて見ると私の小さい背中は、
おしっこの乾く間がなかった。 おかしなことだけれど私は自分のことを、 小さいお母さんになったような心持でいる〉 (『私のお化粧人生史』 昭三○・一一中央公論社)。
後年、 東京・馬込で千代と親交があった作家の廣津和郎は 「あなたは弟妹たちを男の惣領のようによく面倒を見る。 仲よくしているのを見るとほほえましい」
と言ったという。
明治三十七年 (一九○四) 二月の国交断絶によって、 帝政ロシアとの間に朝鮮・満洲の制覇を争っての日露戦争が勃発した。 千代が小学校に入学したのはその年のことである。
〈子供の頃はそのころの町の風潮をそのままうけて、 女であるけれども戦争に行きたいと思い、 ナイチンゲールのような優しい看護婦かジャンヌ・ダルクのような勇敢な女士官になりたいと思った。 学校の唱歌はみんな軍歌であった。 「道は六百八十里、 長門の浦を船出して」 とか 「雪の進軍氷を踏んで」 とか…いま思うとあの口語体の軍歌が私の一番はじめの文学書なのであった〉 (『文学的自叙伝』 =のち 『模倣の天才』 と改題)。
千代は明治四十三年三月、 岩国尋常小学校を学業全甲で卒業し、 同年四月、 玖珂郡立岩国高等女学校 (現・岩国高等学校) に進んだ。 女学校に残っている第四学年の学籍簿を見ると、
一・二・三学期の全十五教科の平均点は九二点を超え、 成績抜群であった。 女学校時代の 「校友会雑誌」 に千代の作文 「秋の山に遊ぶ」、 「秋の夕」、
「櫻」、 「雨來らむとす」 が掲載されているが、 いずれも千代の文才をうかがわせるものである。
千代の父俊次は、 大正二年 (一九一三) 二月八日に五十七歳で病没した。 千代十六歳、 女学校三年の時であった。
俊次は、 千代自ら 「バルザックかドストエフスキーの小説にしか出て来ないような一種の奇人乃至狂人だった」、 「馬を何頭も飼って競馬に出し、 博打もし、 あらゆる道楽をし、 放蕩を極めた」、 「対話は父の命令と私の答えだけにかぎられた」、 「私たち子供に対しては峻厳そのもの、 スパルタ式の教育を施してはばからなかった」、 「草履は腐るが足は腐らんと言って、 雪の日に、 学校へ行くのに裸足で行かせた」 と語るような特異な父親であった。 だが、 小学校時代の学業を全甲で通し毎年の春に旧藩主 (吉川家) から褒美を貰った千代を、 大明小路の料理屋、 鍛冶屋町の芸者屋、 道具屋、 株式相場の店などへ 「今日はこいつが、 学校へ呼ばれての」 と褒美の品を手に誇らしげに連れ歩く一面もあったのである。
厳格な父の死で子供たちはもちろんのこと、 千代の継母・リュウ (当時三十歳) も解放感を得た。 父の存命中は、 木偶人形を操る 「でく廻し」 や 「猿芝居」 が家の近くに来ても見に行けない、 それこそ家の中で息をひそめているような環境が一変した。 近所の人たちは父の死に悔みを述べたあと 「じゃが、 これからはほんにお気楽になれやすですよ。 のう」 と、 ひそかに喜んでくれた。
千代は母に連れられて、 沖の町の木賃宿の座敷で開かれる浮かれ節(浪花節)を聞きに行くようにもなった。千代は〈生まれて始めて聞く浮かれ節は芸術というものに対する、
もっとも初歩的な開眼となった〉 (『生きて行く私』) と言う。
宇野千代は大正三年 (一九一四) 三月、 岩国高等女学校本科 (四年制) を卒業したあと、 川下村尋常小学校に準訓導 (代用教員) として月給八円で採用された。
この頃千代は、 菊池寛一、 鑓田研一ら同人七名で回覧雑誌 「海鳥」 を出している。
教員生活最初の夏休みに、 千代は化粧をすることを覚えた。
翌年、一人の新しい教員が小学校に赴任して来た。 「剃り痕の塗ったように蒼い男」 である。 彼に恋した千代は授業中の生徒に彼当てのラブレターを届けさせるような大胆なこともする。 町中の評判となり、 やがて問題にならないはずはない。
〈或る日のことであった。 私は学校へ出るとすぐ、 校長室へ呼ばれた。 「まことにお気の毒なことじゃが、 ああたは、 今学期一ぱいで、 この学校をやめて貰わんけりゃならんことになりましてのう。 郡役所からの命令で、 どうにもならんのですわい」 〉 (『生きて行く私』) と宣告され、 諭旨 (ゆし) 免職になった。
千代は人の噂を避けて朝鮮へ渡った。 当時、 京城 (ソウル) で教鞭をとっていた女学校時代の女教師を頼ったのである。 千代は 「自作年譜」 に〈大正四年秋、 川下村小学校退職後、 朝鮮京城に渡る。 これより若き日の放浪始まる〉 (『現代日本文学全集第四五巻』 昭二九・二筑摩書房) と記している。
やがて彼からの 「絶縁」 を示す手紙を受けて帰岩するのだが、 決定的な別れが待っていた。 岩国へ着いた千代はその足で、 錦川沿いの夜道を 「安珍を追う清姫」 さながら、 男の転任先である山奥の小学校へひた走った。 だが、 千代に対する彼の態度は、 全く冷たかった。 千代の初恋は、 失恋で終わったのである。
〈私の失恋の特色は、 憑き物が落ちたようになって、 それからあとは恋人のあとを追わないことである〉と言う千代のことであり、 何事もなかったように生き生きと、
雑誌購読勧誘の仕事に取り組む。 千代の最初の夫となる藤村忠との出会いは、 千代十九歳のこのような時期のことであった。
〈或る夕方のことであった。 私は弟妹たちを連れて、 臥龍橋 (がりょうばし) の下の河原へ、 氷を食べに行った… 「ありゃ、 千代さんかいの。 あんまり別嬪におなりたので、 よっぽど、 見間違えるところじゃったでよ」 と言う声がして…あの鉄砲小路の伯母が、 腰を浮かして立っているではないか…見ると、 伯母の腰掛けに、 帽子を冠って袴を穿いた、 学生風の若い男が、 腰掛けているではないか。 帽子には、 三本の白線が入っている。 誰の眼にも、 京都の第三高等学校、 所謂 (いわゆる) 三高の生徒だと分かったのであった…そのことがあってから、 私はときどき、 弟妹たちをつれて、 鉄砲小路へ遊びに行くようになった〉 (『生きて行く私』)。 「三高の生徒」 は藤村忠 (ただす) である。
千代と忠の関係はやがて家族ぐるみのものとなり、 間もなく忠の母に促されて京都の彼の許へ赴く。 この母は、 千代の継母リュウの姉カツである。
知恩院の中の寺の六畳一間での生活では、 忠の父・武吉が裁判所を退職したため送金も途絶えがちであったことから、 千代は質屋通いや中国人家庭での家事手伝いなどで二人の生活を支えることに忙しく、 京都の名所旧跡も知らずに過ぎた。 大正六年 (一九一七) 八月、 忠は第三高等学校を卒業して東京帝国大学法学部に進み、 千代を伴って東京へ出た。 その頃は、 岩国からの送金は全く当てにならず、 忠は大学は籍だけで殆ど出席せずに、 或る役所の雇員になって働いていた。
千代も雑誌社の事務員や家庭教師など、 いろいろな働き口を探して生活を支えることになる。 その一つに本郷の東京大学近くにあった西洋料理店 「燕楽軒」 での給仕女がある。
僅か十八日間の勤めだったが、 ここで千代は今東光や久米正雄、 芥川龍之介などを識る。 なによりも 「中央公論」 編集長の滝田樗陰との運命的な出会いがあった。
のちに千代の小説 『墓を発く』 を採り上げ、 文壇への足がかりを作ったのが滝田樗陰である。 滝田が燕楽軒で摂る昼食のテーブルは千代の受け持ちで、 彼は帰り際に何時も五十銭銀貨をチップとして置いた。 千代は質草を受け出せる金額が溜まった十八日間で店をやめたのだった。
〈大正九年 (一九二〇) 七月六日、 藤村忠は千代との二人三脚によって、 東京帝国大学法学部政治学科を無事に卒業した。 当時、 大学の新学年はアメリカ同様九月に始まり、 卒業式は七月に行われていた。 東大にはまだ経済学部はなく、 忠は政治学科の中で西欧金融経済制度史を専攻した…忠は卒業と同時に、 札幌に本社のある北海道拓殖銀行に就職した〉 (神埜努著 『宇野千代の札幌時代』 平一二・八共同文化社)。 千代は忠に遅れること約二カ月後の九月上旬に北海道へ向かった。
札幌での《藤村千代》は、 忠との平穏な日々を送った。 決まった月給日に相当の金額の月給がきちんと貰えた。 だが、 じっとしていられない千代の血が騒ぐ。 札幌の 「北海タイムス」 や同人誌などに習作を発表していた千代は、 時事新報の懸賞短篇小説に応募し、大正十年一月二十一日に発表された結果は千代の 『脂粉の顔』 が一等に入選、 尾崎士郎が二等、 横光利一ら三名が選外であった。 そのあと、 燕楽軒での面識を頼りに臆面もなく滝田樗陰に送った 『墓を発く』 が 「中央公論」 の大正十一年五月号に《藤村千代》の名で掲載されたのである。
当時、 数多くの同人雑誌で苦労していた若い作家にとって、 「中央公論」 は憧れの舞台であった。 「中央公論」 に作品が載ったということは、 新人として登録されたことを意味しており、 その後凡作を続けて書かないかぎり、 作家としての将来が約束されたも同様であったという。 千代は、 作家としての檜舞台に上ったのである。
大正十一年 (一九二二) 四月十二日、 北海道から上京して 「中央公論」 五月号掲載の 『墓を発く』 の原稿料三百六十六円を手にした千代は、 その日のうちに東京を発ち、 翌日の夕方、 岩国へ着いた。 電報を受けて出迎えに来ていた異母弟妹たちと晴れやかに人力車を列ね、 大明小路を抜け、 半月庵の前を通り、 錦帯橋を右に見て、 土堤から臥龍橋を渡って川西の生家への道を辿った。
「お母 (かか)、 そいじゃ行くけえの」 「風邪をお引きなよ」 と別れの言葉を交わし、 人目を避けて新港から船で発って以来六年振りの、 大金を手にしての
「錦を飾る」 帰郷であった。
千代は岩国を早々に離れ、 北海道を目指したのだが、 札幌の夫の許へ帰ることは遂になかった。 尾崎士郎との出会いが千代を東京に留めたのである。
〈二日ののち私は、 札幌までの通し切符を買って、 岩国を出発したのであった。 東京で、 北海道行きの汽車に乗り替えるとき、 ちょっとの間、 時間があった…もう一度中央公論社に寄って…滝田樗陰に丁寧に礼を言い、 もしそんな話が出来るようなら、 次の仕事の打ち合わせもしたい、 私はそう思った…先客が二人あった。 「これは奇遇だ」 と言って、 その一人が立ち上がった。 それは…評論家の室伏高信であった。 「宇野さん、 この男は時事新報の懸賞小説で二等になった尾崎士郎ですよ」 と、 もう一人の若い男を指して、 言うではないか… 「とにかく、 君のホテルまで行って乾杯しようや」。 室伏高信のこの言葉に従って、 三人は一緒に、 中央公論社を出たのであった…北海道へ帰る時間は、 もうとうに過ぎていた〉 (『生きて行く私』)。
千代と尾崎士郎は、 大森新井宿の下宿屋など大森近郊を転々としたあと、 東京府荏原郡馬込町一五七八番地に居を構えた。 大正十二年五月のことである。
馬込での最初の家は、 百姓家の不要になった納屋を大根畑へ引いて来たもの。 二、 三年経って、 隣地の丘に十坪ほどの赤い洋館を建てた。 尾崎を慕って集まる客は多く、 文学談義にふけりつつ酒が入ると唄になる。 千代はそれを聞きながら嫌な顔ひとつ見せずに酒食のもてなしに励んだのである。 吉屋信子が洋館を見て、 金ピカのベッドを千代に贈ったという。
大正十五年・昭和元年 (一九二六)、 宇野千代と尾崎士郎は岩国の新港でひとときを過ごした。
〈尾崎と一緒に私の田舎へ出掛けて行ったのは、 或る年の夏であった。 祖母が口を利いてくれて、 私たちは新港の山の上にある、 小さな一軒の家を借り、 一夏、 そこで仕事をした。 物好きな人の建てた別荘と言うことであったが、 山の上から見る瀬戸内海の風景は格別であった。 新港。 ここは私が一度となく、 故郷を捨てて出奔した、 その港であった。 ぽう、 ぽう、 といまも汽笛が鳴る。 その音もあの昔と全く同じであるのに、 何と長閑 (のどか) に聞こえることか。 人間の感じることはそのときどきの状況によって、 こんなにも変わるものか。 ここに私たちのいる間に、 母も弟妹たちもたびたびやって来た。 「何ちゅう尾崎さんはええお人じゃろう」と言って、母が嘆声をあげた〉 (『生きて行く私』)。
新港での時期について千代は 「この年の夏」 と言い、 『宇野千代全集』 での大塚豊子編の年譜では 「三月より九月にかけて、 尾崎士郎とともに、 千代の郷里、 山口県新港に滞在」 とし、 尾崎の年譜でも 「三月より九月まで山口県新港に滞在す」 とあるのだが、 尾崎が伊豆湯ケ島に逗留中の川端康成に宛てた何通かの書信がある。
大正十五年一月二十一日付〈発信地記載なし 「女房郷里へ帰つてゐます」 〉。
大正十五年一月二十九日付〈山口縣玖珂郡麻里布村字新港櫻田別荘内竹林痩閑より 「廿七日朝此處へまゐりました」〉。
これを見ると、 尾崎は一月の末には新港に滞在していたことになる。
馬込村で千代は、 尾崎士郎を取り巻く川端康成、 榊山潤、 萩原朔太郎、 廣津和郎、 牧野信一、 間宮茂輔、 三好達治、 室生犀星といった多くの文士との交友があった。
この頃、 廣津和郎に手解きして貰った 「麻雀」 は、 千代の生涯を通じての愉しみとなった。 千代の断髪が萩原朔太郎の妻稲子の駆け落ち事件を起こした。
〈若い女が髪を短く切つて断髪にすることが流行し始めてゐた…私は勇気を振ひ起して髪を切 つた… 「わああ、 大変だ。 宇野千代が髪を切つて、 七歳も若く見えるやうになつた」 と言つて、 馬込中が大騒ぎになつた。 すると気の好い萩原稲子が、 忽ち私の真似をして髪を切つた。 川端康成の妻も髪を切つた。 一大異変が起つたのであつた…萩原稲子は自分よりはうんと歳下の、 まだ十八歳にしかならない若い学生と恋に落ちて、 一緒に駆落ちした〉 (『しあはせな話』 昭六二・五中央公論社)。
川端は当時の馬込を〈細君連中が相次いで斷髪し、 ダンスが流行し、 戀愛事件が頻出し、 大森の文士連中のまはりはなんだか熱病に浮かされたやうであつた。 とにかく賑やかで面白かつた。 私までが宇野千代氏と方々歩いたので、 戀人と誤解した人もあつたらしい〉 (『文学的自叙伝』) と書いている。
昭和二年 (一九二七) 二月、 尾崎士郎は川端康成の招きで始めて伊豆湯ケ島を訪れた。
千代もやがて湯ケ島を訪れるのだが、 尾崎夫妻が逗留したのは川端と同じ湯本館である。
その動静については 「時事新報」、 「都新聞」 の消息欄に 「五月二十二日宇野千代、 広津和郎夫人と湯ケ島へ」 「七月三十日宇野千代氏、 萩原朔太郎氏湯ケ島へ」 「九月三日宇野千代今秋一ぱい湯ケ島に」 「十月五日宇野千代帰京」 などとある。
宇野千代は湯ケ島で梶井基次郎を識った。 東京大学在学中の梶井は昭和二年一月一日、
湯ケ島温泉の湯川館に落ち着いた。 前日の大正十五年・昭和元年の大晦日、 療養のため同地の落合楼に投宿したのだが歓迎されず、
当時、 湯本館に逗留していた川端康成の口利きで移って滞在中だった。
〈夏の初めであった。 湯ケ島の瀬古の滝へ行く路上で、 川端さんに紹介された。 一見、 無骨そうな若い男、 と言う印象であったが、 いかつい骨格の割りに顔色が悪かったり、 無口のこわい人のようでいて、 笑うと眼が糸のように細くなる感じが、 とても柔和な印象であったり、 何だか矛盾した感じを受けた〉 (『梶井さんの思い出』 昭三四・五 「梶井基次郎全集第二巻月報」 筑摩書房)。瀬古の滝は 「世古の滝」 が正しい。
〈この頃、 梶井はまだ、 有力な雑誌に作品を発表することはなかったが、 或る特定の同人雑誌などに発表して作品は高く評価され、 梶井基次郎という名前は、 広く喧伝されていた〉 (『生きて行く私』)。
千代は湯ケ島での梶井についてこのように書いている。 このあと、 千代と梶井の親交が急速に深まり、 二人の“噂”が馬込村に広まるのである。
〈私は梶井の話も、 その書くものも好きなのであった。 思わず、 一緒に話し込み、 夜の更けるのも忘れることがあったが、 それは、 のちに人々の噂し合ったように、 私が梶井に対して、 或る特別の関心を持ったからではなかった。 「宇野千代はおかしい」。 そう言う噂話が、 馬込の人たちの間に流布されている、 と言うことを、 私は夢にも知らなかった〉 (『生きて行く私』)。
千代と梶井との関係を、 梶井の親友であった中谷孝雄は〈梶井の生涯に於けるそれが唯一度の厳粛な恋愛だったと信じて疑はない〉 (『梶井基次郎』 昭四四・九筑摩書房) と言う。
このような状況の中で、 千代と尾崎士郎との間には隙間風が吹いていたのであった。
昭和二年、 尾崎が 「新潮」 九月号に発表した 『河鹿』 には、 尾崎と千代を推測させる二人が別れ話をする場面が描かれているのである。 また、 同年十二月十九日から翌三年の六月二十三日まで 「時事新報」 に連載した尾崎の新聞小説 『世紀の夜』 を、 千代は知らされていなかった。 一回二百円の原稿料は当時としては高額であり、 尾崎は友人を引き連れて銀座のカフェーで豪遊する生活が始まっていた。 馬込の家に寄りつかなくなった尾崎は 『世紀の夜』 を、 あるときはカフェーの二階で、 あるときは急行列車の中で、 またあるときは公園のベンチで書きつづけたのである。
この頃、 尾崎はカフェー 「ライオン」 で、 のちの妻となる古賀清子と親密になった。
昭和三年一月十日頃、 梶井は上京して馬込に来た。 その折、 尾崎が梶井の面上に火のついた煙草をたたきつけるという事件が起きた。 その晩を境に千代と尾崎の家庭生活は実質的に崩壊したのであり、 尾崎は清子を伴って各所を転々とする。 千代と尾崎は昭和五年八月十六日に正式離婚した。 だが千代は後年、 〈いち番好きだったのは尾崎です〉と言い、 尾崎もまた千代に対する思いをこう綴る。
〈宇野千代と結婚した私は、 今までの長い放浪生活を切りあげて、 創作に没頭することのできる生活に入った。 彼女は作家としてすぐれた禀質にめぐまれてもいたが、 同時に家庭の主婦であり妻としては誠実な上に献身的な女であった。 私の作家生活に基礎的な土台をつくりあげたものは彼女であるといってもいい…私に文学眼をひらいてくれたものは宇野千代女史であった…何の自信もなく、 ずるずると無為の感情の中を彷徨していた私の心眼に一点の光を投じてくれたものは彼女である。 それだけは、 この機会にハッキリ断言しておきたい〉 (『小説四十六年』 昭三九・五講談社)。
尾崎と清子の間に長女の 「一枝」 が生まれたのは昭和八年四月のことである。
千代の小説 『幸福』 (昭四五)、 『野火』 (昭四六)、 『或る一人の女の話』
(昭四六) などの主人公の名前が 「一枝」。 これは尾崎に対する千代の敬慕の情の、
ひとつの現れだったのではないだろうか。
宇野千代は 「報知新聞」 に、 昭和四年十二月二十一日から翌五年五月二十二日まで一五○回にわたって、 足立源一郎の挿画で新聞小説 『罌粟はなぜ紅い』 を連載した。 千代は尾崎士郎との別居生活の中、 昭和四年十月から十二月にかけて、 妹の勝子とともに神戸にいたのだが、 大阪住まいの梶井基次郎とはその折に何度か会っている。 小説の題名は、 千代から相談を受けた梶井がつけたのだという。 小説中にガス中毒の場面がある。 千代はその写実をより深めようと、 当時情死未遂事件で騒がれた東郷青児の許を訪れるのだが、 そのまま同棲することになった。 昭和五年のことであり、 二人はその翌年、 東京世田谷の借地に 「コルビジェ風」 の洋館を建てて新しい生活を始めたのである。
昭和六年五月、 千代の短編を集め、 青児が装幀し挿絵を描いた豪華限定本
『大人の絵本』 が白水社から刊行された。
千代の初期の代表作に 『色ざんげ』 がある。 「中央公論」 の昭和八年九月号から連載が始まり、 翌年の二月号、 九月号を経て十年三月号で完結し、 同年四月、 中央公論社から鈴木信太郎の装幀で刊行された。 千代の遅筆を示す一作品でもあった。 『色ざんげ』 は〈或る巴里帰りの若い画家の情死事件を、 その男の話として書いたものである。 その画家は東郷青児。 その青児と五六年の間、 一緒に暮していた私は、 その話をたまに青児から聞くことがあって、 それをもとに、 自分流に一つの物語にした〉 (『宇野千代全集・第三巻』 「あとがき」) ものである。 河盛好蔵は〈読者は、 恋愛小説の一つの古典を読んだときのような感銘を与えられるであろう〉 (新潮文庫 「解説」) と評した。
『色ざんげ』 のほか、 千代が東郷青児を描いた作品に 『未練』 (昭一一)、 『この白粉入れ』 (昭四二)、 『或る男の断面』 (昭四九) などがある。
千代が後年、 彼女の夫たちの中で〈二番目に好きだったのは東郷青児です〉と言う青児との仲も長続きしなかった。
青児は情死未遂事件の相手である西條盈子 (みつこ) といつしか縒りを戻すのである。
青児は 『宇野千代全集・第三巻』 の月報でこう述懐している。 〈彼女は私が制作に没頭してゐると、
ぬき足さし足、 足音を忍ばせて廊下を歩いた。 私も彼女が机に向かつてゐる時は咳ばらいをするのもはばかつた。
私は外国で大人の修業をしたやうなものだつたから、 日本の行儀作法から和服の着かたまでみんな宇野さんに教わつたやうなものだし、
絵の売れない絵描きの私は、 当時翻訳をしたり雑文を書いてゐたので…私の文章を、
簡素平明な大人の文章に直して呉れたのも宇野さんだつた。 こんな理想的なカップルはめつたにない筈なのに数年で別れてしまつたのは、
私の読みが浅く、 宇野さんの稀に見る女らしさと濃やかな思ひやりが掴めなかつたことと、
私が希代の浮気者だつたためである…男でも女でも、 宇野さんのものを読んだら、
幸せなんてものは、 ごく身近にいくらでもころがつてゐると云うことに気がつく筈である〉。
東郷青児は昭和九年五月、 盈子と結婚した。 二人の間に生まれた娘のたまみは、 昭和三十二年七月二十三日、 東京会館で催された千代の 『おはん』 出版記念会に父の青児とともに出席し、 千代のためにピアノを弾いて祝った。
宇野千代にとって 『雌雄』 は、 『足を撫でた女』 (大一三 「大阪毎日新聞」)、 『罌粟はなぜ紅い』 (昭四 「報知新聞」) に続く三作目の新聞小説である。 岩田専太郎の挿絵で昭和十年七月二十日から翌十一年の三月七日まで、 二五○回にわたって連載された。 当時、 新聞小説は新聞の売り上げを左右する要素の一つであって、 著名な作家の作品が鎬 (しのぎ) を削っていたのであった。 千代の 『雌雄』 もそれらに肩を並べたのである。
千代は 『雌雄』 連載開始直前の昭和十年三月に 『色ざんげ』を完結させているのだが、その主人公は湯浅譲二。 『雌雄』 の主人公も湯浅譲二であるが、
『色ざんげ』 を焼き直したものではなく、全く新しく生まれ変わらせた千代異色の長編小説である。
宇野千代と北原武夫は昭和十四年四月一日、 画家の藤田嗣治と作家の吉屋信子の媒酌で結婚し、 帝国ホテルで盛大な披露宴を催した。 このとき千代四十二歳、 北原三十二歳であった。 招待状を受け取った人の中には 「エイプリル・フールじゃないのか」 「どうせ直ぐ別れるよ」 などと言うものもおり、 騒がしかった。
北原武夫は本名健男。 父信明は日露戦争に参戦した一等軍医で、 千代は後年、 彼の話をもとに 『日露の戦聞書』 を書いている。 北原は慶応義塾大学仏文科から国文科に転科して昭和七年三月に卒業後、 「都新聞」 (現・東京新聞) に入社し横浜支局詰めとなったのだが、 東京へ転勤した後の昭和十一年、 取材で千代を訪ねた。 千代は〈そのとき始めて会つた北原に、 私が魂を奪はれるほど気をとられて、 それから後は毎日毎日、 北原に会ふために 『都新聞』 の玄関まで行つた〉 (『しあはせな話』) のだった。
千代は昭和十一年六月に雑誌 「スタイル」 を創刊しているが、 その翌十二年の六月、 千代の熱心な勧めで北原は作家生活に入る決意を固め、 都新聞社を退社した。 北原の妻美保子はこの年の三月、 結核が悪化して死去した。 腰椎カリエスで歩行が不自由な娘のミキが残されたのだが、 彼女も千代と北原が結婚した十四年の七月、 カリエスから結核性脳膜炎を再発して死んだ。 新聞社を退職した北原はファッション雑誌 「スタイル」 の編集に携わることになり、 順調に売り上げを伸ばした。
北原は昭和十六年十一月中旬、 陸軍報道班員として徴用され、 翌十七年一月内地を出発してジャワ島に敵前上陸した。 このとき大宅壮一、 武田麟太郎らが一緒だった。 千代は遠く戦地に在る北原への思いを 『妻の手紙』 (昭一七・一○甲鳥書林) に託した。 のちの名作 『おはん』 は二人の女の間をうろうろする甲斐性なしの男の語りで展開するのだが、 『妻の手紙』 の〈ほんとうに、こういう女のとるにも足らぬ心持ちなぞ、誰がとがめるものがございましょう〉の 「口説 (くど) き」 の調子は 『おはん』 の文体と似ている。
千代はこの年の四月二十四日徳島に渡って吉岡久吉に取材し、 その聞き書きによる
『人形師天狗屋久吉』 (昭一八・二文體社) を著すなど、 およそ戦争とは無関係の作品に力を注いでいたのであった。
昭和十九年一月に 「スタイル社」 は戦時の統制で解散を余儀なくされた。
千代と北原は三月、 熱海に疎開する。 さらに十二月には太平洋戦争の激化にともない、
北原の実家がある栃木県壬生に再疎開した。 千代はここで北原の父・信明から聞いた話を元に、
『日露の戦聞書』 を書いた。 北原は郷里での疎開生活を 『帰郷記』 にまとめている。
千代と北原は昭和二十年八月十五日の終戦を壬生で迎えたが、 その年の十一月には早くも上京し、 その翌年三月には社長が北原、 副社長が千代という体制で婦人雑誌 「スタイル」 を復刊させた。 産経新聞社長の前田久吉から資金や用紙を提供するからとの申し出でスタートしたのだが、 巴里帰りの高野三三男が描く女の表紙で飾られた 「スタイル」 は、 前田の資金を必要としないほどの爆発的な売れ行きとなった。 金は湯水が沸くように二人の手元に入って来た。 しばらくスタイル社の全盛期が続くのである。
昭和二十一年十月には二十万円を投じて銀座西五丁目の二十坪の土地を借地し、 一階が住居、 二階が事務所の木造建築の建物を竣工させた。 二十二年には、 北原の父への親孝行として壬生の古い家をすっかり立て直した。 二十三年には熱海の東山に別荘を持った。 そして更に二十五年四月には歌舞伎座近くの中央区木挽町に、 坪当たり二十五万円の当時日本中にそれほど金をかけたものはないと言われたほどの豪邸を新築して移り住んだのである。 だが、 衰亡の時は忍び寄っていた。
昭和二十七年に入ると、 大手出版社からの 「スタイル」 類似の豪華雑誌が相次いで発行されたため、 次第に売り上げ不振となり、 それに同業者の投書による脱税摘発が追い討ちをかけて経営を揺るがした。
〈国税庁から、 不意に査察に来た…取り調べは一カ月あまりかかった…三カ月の後に、 国税庁の査定があった。 追徴金まで加えると、 億に近い金額であった。 ひょっとしたら、 社長である北原は、 或る罪名によって、 逮捕されるかも知れないと言われた〉 (『生きて行く私』)。 振り出した手形は暴力団の手に渡り、 返済出来なければ殺すと脅されるような 「奈落の底」 も見たのだった。 千代が平林たい子を訪ね、 二十万円を貸して貰ったのもこの頃のことである。
昭和三十二年五月、 スタイル社は会社更生法の適用を受けて再発足するが、
三十四年の四月に不渡り手形を出して完全に倒産した。 その末期にはスタイル社としては銀行からの融資の道は完全に閉ざされ、
作家・北原武夫個人としての借り入れで凌いだのだが、 その負債は八千数百万円にも上った。
銀座の土地建物、 熱海の別荘、 木挽町の豪邸、 新築間もない栃木の北原の父の住居が相次いで人手に渡った。
千代は 「きもの」 の売り上げで、 北原は中間小説などの文筆収入で返済に奔走した。
返済が完了したのは昭和三十九年春のことであった。 その年の九月、 千代と北原は離婚した。
〈或る朝、 北原は私に向って、 「これに署名してくれないか」 と言って、
一枚の印刷した紙を出した。 見ると、 離婚届と書いたものであった。 「ええ、
好いわ」 と私は答えた。 ながい間一緒にいた私たちの間には、 もう別れても宜
(よ) さそうなものだ、 と人の眼にも映ることは幾度もあったが、 それでも私たちは別れなかった。
一緒の場所で暮していた…その翌日、 北原は荷物をまとめて、 それまで一緒にいた私たちの家を出て行った…その北原の後姿を見送ってから、
家の中へ引返し、 私はひとりで少し泣いた〉 『弱者のように』 昭五五・一 「新潮」)。
〈しかしその涙は、 別れるのを辛 (つら) いと思って流したものではなく、
「ながい間、 一緒にいたなア」 と言う感慨の涙であった〉 (『続幸福を知る才能』
昭五八・四海竜社)。
千代に藤村忠と大正五年から同十年 (正式の離婚は大正十三年四月) までの約五年間、 尾崎士郎と大正十一年から昭和二年までの約五年間、 東郷青児と昭和五年から同九年までの約四年間の結婚生活があった。 いずれも短い期間であったが、 北原との生活は、 後年に疎遠の時期がかなりあるものの、 昭和十二年 (正式結婚は十四年四月) から同三十九年九月の離婚まで約二十七年間に及んだのであり、 「ながい間、 一緒にいたなア」 と言うしみじみとした感慨となったのであろう。
北原には昭和二十六年九月、 当時銀座のバー 「山」 にアルバイトヘ出て一カ月ほどだった俳優座養成所の女優・久下慧子 (芸名・公卿敬子) との出会いがあった。 二人は北原が千代と離婚した翌四十年の十一月、 慶応義塾大学塾長の佐藤朔夫妻の媒酌で結婚し、 ホテル・ニューオオタニで盛大な披露宴を催した。 慧子にとって、 北原と知り合ってから十四年目のことであった。
北原武夫を描いた千代の作品に 『刺す』 (昭四一)、 『私の文学的回想記』 (昭四七)、 『雨の音』 (昭四九)、 『生きて行く私』 (昭五八)
などがある。北原は 『宇野千代のこと』、 『宇野千代という女性』、 『帰郷記』、 『空隙』、 『別離』などで千代を描いた。
昭和二十二年 (一九四七) 十二月、 千代と北原が再興したスタイル社から文芸季刊誌 「文體」 の復刊第一号が発行された。 このときの執筆陣を見ると、
井伏鱒二、 大岡昇平、 河上徹太郎、 河盛好蔵、 北原武夫、 久保田万太郎、 小林秀雄、 高浜虚子、 高見順、 真船豊ら錚々たる顔ぶれであったが、
千代の 『おはん』 第一回がそれに並んだのである。
「文體」 は二十四年七月の第四号で廃刊となった。 二十五年に入って 『おはん』 は、 舞台を移して 「中央公論」 の六月号から再掲載され、 昭和三十二年五月号まで八回の分載で完結した。 実に十年に及ぶ歳月を要したのであり、 この時、 千代六十歳。 千代にとって 『おはん』 の執筆に呻吟した期間は、 実生活の上でも波乱に満ちた歳月であった。
『おはん』 に取り組むきっかけは、 千代が 『人形師天狗屋久吉』 の取材で昭和十七年に徳島に滞在していた頃、 ふと立ち寄った古道具屋の主人の話に触発されてのことである。
昭和三十二年六月に木村荘八の装幀・挿絵で中央公論社から刊行された 『おはん』 は、 〈全文学愛好家の渇望にこたえる、 春琴抄、 東綺譚につぐ昭和文学の名作〉 (初版帯) とうたわれ、 奥野健男は〈これほど文壇の玄人である諸家から待たれ、 愛され、 ほめられた作品はないであろう〉 (新潮文庫 「解説」) と高く評価した。
千代は 『おはん』 によって第一○回野間文芸賞 (昭三二) 及び第九回女流文学者賞 (昭三三) を受賞した。 昭和三十六年にはドナルド・キーンの英訳本がアメリカで、 翌三十七年にはイギリスでも刊行されている。
三十二年七月の歌舞伎座で久保田万太郎脚色・演出により、 中村歌右衛門のおはん、 中村鴈治郎の加納屋で上演されたほか、 十一月の文楽座でも文楽 「おはん」 が上演された。 また、 五十三年一月には脚本・早坂暁、 演出・河野宏、 中村玉緒、 津川雅彦、 加賀まりこにより朝日テレビ系列で放映された。 さらに、五十九年には市川崑監督、 吉永小百合、 石坂浩二、 大原麗子により東宝から映画化された。
「だましてください最後まで/信じる私をぶたないで……」の主題歌を五木ひろしが唄った。 その後、 平成四年十一月・十二月の芸術座公演で山本陽子がおはんを演じ、
橋爪淳の加納屋、 香山美子のおかよで好評を博した。 山本にとって、 その後も上演が相次いだおはんは当たり役となり、 その演技で菊田一夫賞を受けた。
千代が 「淳(あ)っちゃん」 と呼びかけ、 誰よりも頼りにしていたのは元秘書の藤江淳子である。 千代の生涯で藤江の名を欠かすわけにはいかない。 藤江は昭和三十三年 (一九五八)、 北原武夫の縁で千代のもとへ来た。 千代と北原が正式に離婚する数年前のことであり、 千代が苦難の時期であった。 藤江はそれ以後、 千代の平成八年 (一九九六) 六月十日の死去まで実に四十年に近い年月を、 〈自然に、 殆ど四六時中、 親と子が一緒にいるような格好で〉(『生きて行く私』)千代の傍にいたのである。
千代は藤江のことを〈私は本当の子供には恵まれなかったけれど、 本当の子供以上ともいえる娘に恵まれました…秘書の淳っちゃんです〉 (『人生学校』平六・二海竜社) と言う。 また、 〈私と言う人間は、 彼女に百万べんの感謝の気持ちを持つべきではないだろうか、 と或る日のこと考えて、 大袈裟に言うと、 涙がこぼれるような気持ちになった〉 (『一ぺんに春風が吹いて来た』) とも言うのだが、 その藤江は〈私が先生を守ってきたのではなくて先生から守られてきたのです〉 (集英社文庫 『私何だか死なないような気がするんですよ』 解説) と述懐するのだ。 千代と藤江とは、 形影相伴う存在だった。
藤江は宇野千代の葬儀で喪主を務め、 現在、 千代の衣鉢を継いで 「宇野千代文学」 や 「宇野千代ブランド」 を守り立てている。
千代は戦後に再発足したスタイル社から 「きもの読本」 を発行している。 着物が好きだと云う千代は、 戦後間もなくから着物のデザインに手を染めていたのであり、 昭和二十四年 (一九四九) には、 《宇野千代きもの研究所》を設立した。
スタイル社が倒産したあと、 その負債の返済には自らデザインした着物の売り上げが大きく預かった。 千代は〈私は小説家の癖に二股かけて、 きもののデザインをしてゐるのではない…どちらも独立した、 同じ尊い仕事だと思ひ、 ただ、 偶然に、 きもののデザインが好きだから、 思はずしてゐるだけのことである〉 (『私はいつでも忙しい』昭五九・一〇中央公論社) と言う。 デザイナー宇野千代の評価は高まり、 昭和三十二年五月にはアメリカでの万国博覧会に招待されて作品を出品し、 大成功を納めた。
千代の着物のデザインは、 桜をモチーフとしたものが多い。 桜は春だけのもの、 といった 「約束事」 に背いて、 春夏秋冬の着物に桜をちりばめたのである。 〈私のデザインする着物の柄には、 桜の花が多い。 この柄が多くの人びとに喜ばれ、 求められることはとてもうれしいことである。 私は桜の花が好きなのである…桜は、 私の故郷の花であった。 私の心の花であったのである。 心のひだに刻みこまれた桜の花の美しさが、 桜の柄の着物を私に作らせたような気がするのである〉 (『生きる幸福老いる幸福』 平四・三海竜社)。
千代七十歳の昭和四十二年 (一九六七) に《株式会社宇野千代》を設立したが、 蒲団、 寝巻、 ハンカチ、 エプロン、 風呂敷、 傘、 漆器、 小豆島のオリーブオイル・素麺等々の 「宇野千代ブランド」 品は、 今も根強い人気で支えられている。▼『風の音』
昭和四十四年七月、 創刊特大号と銘打って文芸総合誌 「海」 が中央公論社から発刊された。 その 「創作特集」 の筆頭を飾ったのが千代の 『風の音』 一九○枚であった。 その他の作品は掲載順に井上靖 『聖者』、 椎名麟三 『危険な存在』、 石川淳 『天馬賦』、 平林たい子 『鉄の嘆き』、 辻邦生 『背教者ユリアヌス』、 三島由紀夫 『癩王のテラス』 である。 いずれも屈指の作家たちであり、 それに伍した千代の文壇での地位が窺える。
河上徹太郎は初版の 「帯」 に〈宇野千代さんは私と同郷の先輩である。 われらの郷里は、 およそ無骨な貧乏城下町であるが、 かつて宇野さんはそこを舞台に、 名作 「おはん」 といふ世にも優艶な物語を創り上げた。 それは二人の愛欲に引きずられる人情噺だったが、 今度の 「風の音」 は、 それに劣らぬ艶つぽさと共に、 男の執念にやくざめいた影があり、 独自のひたむきな欲情が脈打つてゐる。 それに書割も方言も、 前作より、 より岩国的だ。 その才筆によりこの無粋な町が忽然と色つぽい地方都市と化したことは、 ほとんど一文学的奇跡である〉と推薦文を書いた。
〈いつでも一枝は風呂から上ると、 ちょっとの間、 鏡の前に立って、 自分の裸の体を見る。 タオルを当てて、 少し腰をひねるように曲げて立っている。 ぽっと赫らんだ肌をしている。 「似てる」 と思う。 ボッチチェリのヴィナスの絵に似てると思うのだ。 足もとに貝殻がないだけで、 ポーズが似ている…しかし一枝は、 自分の裸の体がヴィナスのようだと、 しんから思う訳ではない。 七十歳をとうに越している体が、 ヴィナスのようである筈がない。 ひょっとしたら、 少しは斑点があるかも知れないし、 肉のおちているところもある。 しかし一枝は眼がよく見えない。 その上、 湯気の中で視点が定まらない。 一枝はそのことを幸福の一つに数える〉。 これが 『幸福』 の書き出しである。
『幸福』 は昭和四十五年、 「新潮」 四月号に掲載され、 翌年五月、 第一○回女流文学賞を受賞した。 その選考委員の一人である井上靖は〈宇野さんの 「幸福」 を読んで、 暫くぼんやりしていた。 別段強い感動を受けたわけでも、 烈しく心打たれたわけでもないが、 ここにあるものはほんものだという気がして、 ほんものだけから受ける醍醐味のようなものを味あわせて貰ったわけである…宇野さん以外の人には絶対に書けない、 宇野さんの作品である。 さすがだと言うほかはない…最後の結びなどはうまいものである…宇野さんの名篇に対して心から敬意をおくる次第である〉 (『ほんものの強さ』) と賛辞を贈った。
『幸福』は〈雪は止まない。 もう 二尺も積もつたらうか。 すぐ家の横手に、 ゆるい坂になつた道が見える。 スキーと言ふものを知つてゐたら、 恰好の場所なのに、 と思ふのも愉しい。 昨日からの雪で、 その道には車のあともない。 この家は四方とも同じ雑木の林に圍まれてゐるので、 雪を支えた細かい木々の枝が、 どこからでもレースのやうに見える。 まだ日がさしてゐるのに、 雪粉が舞ひ上る。 風がでたのである〉と結ばれている。
「根尾谷淡墨桜 (ザクラ)」 と呼ばれる岐阜県本巣郡根尾村の淡墨桜 (彼岸桜) は、 樹齢一千五百年余で大正十一年十月、 由緒ある桜の代表的巨樹として天然記念物に指定されている。 この淡墨桜は蕾のうちは薄いピンク、 満開になると白色に変わり、 散りぎわには特異の淡い墨色を帯びてくるという。
宇野千代を淡墨の桜に結びつけたのは評論家の小林秀雄であった。 小林から薄墨桜のことを聞いた千代は、 根尾村へ 「駆け出した」 。 このとき千代、 七十歳である。
昭和三十四年九月の伊勢湾台風で、 淡墨桜はその太い枝が折れ、 葉や小枝は殆どもぎ取られて無惨な姿に変わった。 千代が根尾村を訪れたのは、 その後遺症がそのままの昭和四十二年四月十一日のことであった。 千代は老残の痛々しい淡墨桜に心をうたれ、 感想文 (『淡墨桜』) を雑誌 「太陽」 (昭四三・四) に発表するとともに岐阜県知事に訴えた。 枯死寸前の老桜を救うための募金活動も始めた。 その熱意を受けての岐阜県の手当の甲斐があって淡墨桜は蘇生した。 その顛末を辿りながら、 大料亭の老女将高雄と薄幸の娘芳乃を軸に描き出したのが 小説『薄墨の桜』 (のち 『淡墨の桜』 と改題) である。
『薄墨の桜』 は 「新潮」 の昭和四十六年一月号に第一回が発表されたあと四十九年十一月号まで分載され、 昭和五十年四月、 三井永一の装幀・挿画で新潮社から刊行された。 水上勉は〈その文章のみずみずしさもだが、 自己の主題 (モチーフ) を自分流の小説構造に案出して血を流す宇野さんの新骨頂を見て息を呑んだ〉と嘆賞した。▼生家の修復と叙勲
昭和四十九年三月、 岩国・川西の生家の修復が完成した。 継母のリュウが昭和二十六年一月十四日に死去する直前まで、〈川西の往還を通ると、 うちの家が一番ひどうなっとる、 と人がみなお言いるげな〉と、 その傷みの激しさを懸念していた生家である。
〈「田舎の家がこけそうになったので見に行くけど、 姉さんも一緒にお行きんか」 或るとき、 同じ東京に住んでいる弟 (薫) から電話があった〉 (『故郷の家』 昭四九・七 「海」)。 〈見に行って私は吃驚 (びっくり) した…家の修復を頼むことにした…私はときどき東京へ帰り、 また、 韋駄天走りに岩国へ戻って来た…出来上がったとき、 私は、 「お母 (かか)、 見ておくれえ。 これで、 うちの家は、 川西で一番ひどい家では、 のうなったでよ」 と、 あの、 家のことを気にかけながら死んで行った母に、 言いかけたいような気持ちであった〉 (『生きて行く私』)
千代は生家の修復が成ったこの年、 四月に勲三等瑞宝章を受章した。 また十一月には七十七歳の喜寿を迎えるのであり、 三つの慶事が重なったのである。
『チェリーが死んだ』 は 「文學界」 の昭和五十一年九月号に掲載され、 五十二年三月に中央公論社から刊行された
『水西書院の娘』 に 『よよと泣かない』 『神さまはゐるか』 とともに併録された。
『八重山の雪』 (昭五○・一○文藝春秋) の後編ともいうべき作品であり、
その中で英国兵と純愛の日々をつつましく過ごしていた 「はる子」 は、 この作品では娼婦チェリーとして登場する。
〈あるとき、 チェリーのところへ、 一通の手紙が来た。 「僕はもう、 二度とあなたのところへは帰れなくなりました」 …手紙は英本国から来たものであった。 所書はどこにも書いてなかった。 チェリーは呆然としていた。 長い間、 辛抱して待っていた辛抱の緒がきれた、 と言う気がした。 子供を家族の手に残して、 チェリーは松江の町へ出た。 あの頃と同じように、 松江の町には、 英国の兵隊が歩いていた…それから後のチェリーは、 男のあとを追って、 九州の佐世保へ行った。 それから沖縄へ行ったり、 呉へ行ったり、 北海道の千歳へ行ったり、 青森県の三沢へ行ったりして、 朝鮮戦争のあった頃には、 私の田舎の町にある基地に、 流れついたのであった。 〉(『チェリーが死んだ』)。
千代は昭和四十九年十一月、 小説 『八重山の雪』 の取材のために松江を訪れ、 八重山にも登った。 また、 五十年六月には岩国の基地周辺を訪ね、 「チェリー」 に取材している。〈 『チェリーが死んだ』 は、 私の故郷、 岩国の基地で、 米兵に殺された或る娼婦の話である。 彼女は五十歳を過ぎていた。 基地から基地へ渡り歩いていたそう言う女が、 童女のような眼をしていた、 と言う話を、 人は信じない〉 (『宇野千代全集・第八巻』 あとがき)。
昭和五十二年七月の第五巻 (小説五) を皮切りに、 中央公論社から 『宇野千代全集』
の刊行が始まった。 翌五十三年六月の第十二巻 (随筆四) までの全十二巻が毎月一冊配本されるものである。
〈今日、 全集のポスターが届いて来た。 見た瞬間、 私はあっと声を上げた。
紙の真ん中に印刷された大きな女の顔。 忘れもしない、 あれは二十何年か前に出た
「おはん」 の表紙の顔である。 吊り上った大きな眼、 情感を湛 (たた) えた唇、
哀れに優しく、 強く、 愛の深さを秘めた顔であるのに、 恨みの念の欠けらもない、
幽玄な顔。 この顔を全集のポスターの紙一ぱいに再現して、 その上に、 「愛の哀しさと別れの美しさを描きつくした情念の作家」
と言うキャッチフレーズの書いてあるのを見た私は、 いささかも照れることなく、
そうだ、 その通りだと肯定したと言うのは、 何と言う好い気なものであろう。
私は素直なのか、 馬鹿なのか、 それとも自惚れ屋なのか。 それにしても、 作者本人に、
こんな気を起させるとは、 キャッチフレーズの絶品か〉 (『或る日記』 昭五三・四集英社)。
千代が敬慕してやまなかった青山二郎が本の装幀をした。 千代はその装幀を喜んでこう書いている。
〈全集第一回配本分の見本を、 今日、 届けて貰う。 青山二郎の装幀が、 何とも美しい。
背皮に印刷された題字は、 中国の何とか言う古典本に使われた、 木彫の活字とのこと。
典雅で気品がある。 お蔭で、 美事な本が出来上り、この老年になって、「花が咲いたような気持ち」
と言ったものである〉 (同前)。
満八十歳の誕生日 (十一月二十八日) を目前にした昭和五十二年十一月十九日、 その祝いを兼ねた宇野千代後援会の発会式が、 錦帯橋を眼下に望む岩国国際観光ホテルで開催された。 後援会は 「宇野千代先生の文学活動における実績をたたえ、 郷土の文豪として将来にわたり広く文学愛好者の協力を求め、 その功績を顕彰することを目的」 としたものであった。 その事業として一、 宇野千代全集の購入あっせん。 二、 宇野千代文学に関する研究会、 読書会の開催。 三、 その他、 宇野千代先生に関すること (たとえば文学碑の建設等への助力等) を掲げた。 千代は席上、 大要次のように挨拶した。
〈六十二年前、 私はこの田舎から都会へ出てまいりました。 それは志を立てて郷関を出づと言うのとは全く反対なんです。 私はこの町から逃げ出して行ったんです…月日が経ちました。 都会へ出たのちの私も、 やっぱり人には褒められないような行いが多かったと思います。 それは私自身でも認めております。 それでもやはり、 田舎が恋しくなって、 帰りたいと思うことが度々ありました…家を直したりしますと、 前のことは忘れて、 一年に五遍も六遍も帰って来るようになりました。 そうしていますうちに、 あの、 故郷の人には容れられないと思い込んでいたのは私の間違いで、 私の一人相撲で、 自分一人が故郷の人々を拒否していたのだと分かりました…私を二歳のときから育ててくれた継母のリュウに対して、 私はこう言ってやりたいのです。 「お母 (かか)、 よう見ておみい。 今日も私の会をやって下さるという方が、 こんなに大勢集まって、 私のためにいろいろ考えてくだすっているんです」 こう言ってやりたいのです。 皆さん、 ありがとうございます〉。
このとき、 宇野千代の胸には、 故郷岩国の人々に温かく迎えられ、 改めて 「認知」 されたという思いがいっぱいに広がったのであろう。 それぞれの 「こだわり」 は氷解したのである。 宇野千代後援会の初代会長には伊藤正一、 事務局長には森本正人が就任した。 平成元年、 伊藤の死去に伴い中川恵明が会長に就任した。
青山二郎は鋭敏な鑑賞眼を持つ陶器鑑定の第一人者と称されるが、 装幀家としても知られており、 千代の作品では 『宇野千代全集』 (昭五二・七〜昭五三・六) のほか 『水西書院の娘』 (昭五二) 『或る日記』 (昭五三) 『残つてゐる話』 (昭五五) 『或るとき突然』 (昭五六) などの装幀を手がけている。
青山の周辺には小林秀雄、 河上徹太郎、 大岡昇平、 中原中也、 三好達治、 白州正子らが蝟集し、 「青山学院」 の名があった。 青山は大岡昇平によるとこうである。 〈青山学院という言葉がある…青山二郎を取り巻くグループについたあだ名である。 生徒はもとは僕のような文学青年ばかりだったが、 最近は有閑夫人や、 実業家、 女給、 板前、 女中といろいろ種類があるようで、 みんなそれぞれ 「ジイちゃんってなんだか頼りにならないけど、 とても親切で、 どうしてあげたらいいかと思っちゃうは」 と大変な人気である…青山はどんな人間でも決して棄てない…どこかにいいところがない人間なんかいないのだが、 ほかの悪いところをみんな我慢するのは出来ないことである〉 (『桜と銀杏』 昭五一・八毎日新聞社) と青山を評した。
千代と青山との出会いは昭和十七年、 中山義秀と真杉静枝との結婚披露宴でのことであったが、
それ以来、 青山は惚れた腫れたの感情抜きで千代を愛した。 千代もまた 『青山二郎の話』
を、 青山への尊敬と思慕の情を綯い交ぜて三年がかりで書き上げた。 昭和五十五年十一月に中央公論社から青山二郎のカバー・扉絵で刊行されたのだが、
青山はそれを見ることなく、 前年の五十四年三月二十七日、 七十七歳で死去した。
昭和五十七年二月十四日から同年十月三十一日まで、 毎日新聞 「日曜くらぶ」
に三井永一の挿画で連載された 『生きて行く私』 は、翌五十八年八月に上下二巻が毎日新聞社から刊行されミリオン・セラーとなった。
岩国では五十九年六月九日、 国際ソロプチミスト岩国が創立五周年を記念して千代を講師に迎え、
文化講演会 「生きて行く私」 を市民会館大ホールで開催した。 〈講演料は無料、
宿泊準備不要、 送迎必要なし〉との千代の意向で入場無料とされ、 整理券を発行したのだが、
それを求める電話は鳴り続けだった。 当日、 会館前は人で埋まり市民会館開館以来の大盛況となり、
会場の大ホールから溢れた聴衆は別の小ホールでのテレビ視聴となった。
舞台装置は、 金屏風の前に千代デザインの着物を飾り、 周りを千代の好きな紫の花、 季節の菖蒲がいっぱいに囲んだ。 講演終了時に、 川下小学校教員時代の教え子十数名が紫の花束を手にステージに登壇し、 久々の対面で場の雰囲気が盛り上がった。
講演の最後の 「故郷に対する私の感慨」 で千代は、 〈岩国の皆様、 私の今までして来たおかしなことを許してください〉と万感胸に迫った風情で口にした。 会場は一瞬静まったあと、 すぐ万雷の拍手が沸いた。 〈許してください。 また、 岩国へ帰って来ます。 錦帯橋も桜も日本一です。 私は日本一の故郷を持った日本一の幸福な者です〉と締め括った千代は、 会場を揺るがす拍手に送られて退場した。 (参考/ 『国際ソロプチミスト岩国・会報第五号/5周年記念特集』)。
この年の十一月三日から三十日まで、 帝国劇場で 「生きて行く私」 が小幡欣治脚本・演出により次の配役で上演された。 山本陽子 (宇野千代)、 西岡徳馬 (尾崎士郎)、 中山仁 (東郷青児)、 大出俊 (北原武夫)、 南田洋子 (平林たい子)、 市毛良枝 (妹・勝子)、 安奈淳 (西條盈子)、 若原瞳 (藤江淳子)。 昭和五十九年度文化庁芸術祭参加作品である。
千代は中公文庫 『生きて行く私』 (平四・一中央公論社) の 「あとがき」
で生きる 「決意」 を〈私は現在満九十四歳の秋を迎えた。 そして、 宇野千代の
「生きて行く私」 はまだまだこれからも続いて行くことになるのである。 平成三年十月二十五日 宇野千代〉と示した。
昭和六十年 (一九八五) は、 千代が満八十八歳の米寿を迎えた年である。 六月十八日、 岩国・横山の紅葉谷公園で《おはんの碑》の除幕式が行われた。 国際ソロプチミスト岩国が五周年記念事業として建設を進めたものである。 四国石槌山の自然石青石に銅鋳板を填め込んだ。 碑面には千代自筆の 『おはん』 の一節〈去年の夏/臥龍橋の上ではじめて/おはんに会うてからこの幾月/大名小路と鍛冶屋町と二つの家を/行きつ戻りつしてたよに/今日からは川西の奥に/新しうにまた一つ/家がでけたのやと/何食はぬ気で/ゐてたのでござります 宇野千代〉が刻まれた。 千代は除幕式に参列出来なかったが、 七月十日に帰岩して碑と対面した。
昭和六十年十一月三十日、 帝国ホテルで千代の米寿を祝う会が催された。 会は 『地球交響曲 (ガイアシンフォニー)』 などの映画監督龍村仁が演出し、 総合司会を大平透、 司会山本陽子で進められた。 誰からも愛された千代の祝いには、 文壇、 出版界、 芸能界などから五百人を超す華やかな顔ぶれが揃った。 千代は岩国からの有志の参会を心から喜び、 自ら紹介した。
獅子舞をバックに瀬戸内寂聴に手を引かれて登場した千代は、 『生きて行く私』 の舞台でかつての夫を演じた西岡徳馬、 中山仁、 大出俊にエスコートされての三度の 「お色直し」 に自らデザインした大振袖を披露した。 作家の廣津和郎は、 千代を親愛の念をこめて 「初荷の馬」 と渾名したが、 千代はそれに応えるように、 華やかに、 艶やかに、 色っぽく、 天真爛漫な姿を見せた。 千代はそのことで、 溢れる感謝の念を満場の来会者に示したのであり、 彼女の 「旺盛なサービス精神」 の発露でもあったのだろう。 千代は言う。
〈私があの会場で、 ありもしない知恵を絞つて、 きらびやかな着物を着たり、 髪に花簪をさしたりしたのは、 多くの人々の眼を欺くためではなく、 もし、 それらの人人の期待に、 返礼することが出来たら、 とさう思つたからである〉 (『しあはせな話』 昭六二・五中央公論社)。
会ではユーモラスな場面があった。 千代の 「大失敗」 である。
〈紙に書いて来たものを持つて来たりしたのに、 大ぜいの聴衆を前にして、 すつかり上つて了つた私は、 この会の最後に読むために用意して来たものを、 一ばん先に読んで了ふやうな大失敗をして了つたのであつた…最後の場面に来たとき…あとさきの言葉を間違へて了つたと言ふことを白状して、 もう一ぺん、 前に読んだ同じことを読みますから、 お笑ひ下さい、 と断つた上で、 その同じことを読むと、 人の失敗くらゐ面白いものはないと見えて、 会場一面に、 大爆笑が起つた。 私のこの失敗は観客を大いに喜ばせて、 失敗ではなく反対に、 大成功を博したのであつた〉 (同前)。
最後の挨拶は〈皆さん、 今度は卒寿の会ですよ。 その次は白寿ですよ。 それまで体を大切にして、 元気でいて下さいね。 またきっとその時来て下さいね〉であった。 「私何だか死なないような気がするんですよ」 と言う千代の面目躍如の言葉である。
昭和六十二年二月、 東京会館で千代 「卒寿を祝う会」 が催されたが、 白寿
(九九歳) の祝いは僅かに叶わなかった。
『残っている話』 (昭五五・一集英社) は、 千代が自らのルーツを玖珂郡の周東町、
玖珂町に探った作品である。 〈私の家、 宇野の家の祖先は、 玖珂の鞍掛山の城主、
杉隆泰の家老である。 名前は、 宇野筑後守正常と言う。 いまから四百何十年か前、
戦国時代の始まろうと言う頃のことであるが、 主君の杉隆泰が讒訴 (ざんそ)
のため、 毛利、 吉川の軍勢にとり囲まれ、 二万の大軍に、 味方の兵力は三千、
衆寡敵せず、 落城した。 その際に、 藩主とともに切腹した〉 (『残っている話』)。
このときの落城で切腹した藩士は、 千三百七十人といわれ、 古戦場の鞍掛山の麓に
「千人塚」 が建てられている。
千代は昭和六十三年三月五日に建てられた黒御影石の慰霊碑に、 玖珂ライオンズクラブの委嘱で
「史跡千人塚に想ふ」 の碑文を書いた。 碑に刻まれた自筆の書は 〈史伝によれば、
戦国大名安芸の毛利元就は厳島の合戦で陶晴賢を破り、 勢ひに乗じて周防長門へ駒を進めた。
その最初の戦が玖珂盆地における鞍掛合戦であつた。 大内氏の三家老の一人、
この地方を治めてゐた治部大輔杉隆泰は、 千三百余名の部下とともに鞍掛城に立籠り、
毛利軍七千を迎え撃つたが多勢に無勢、 砦を枕に壮烈な討死をとげたといふ。
弘治元年 (一五五五) 十一月十四日のことであつた。 血縁地縁につながる者の一人として、
ここ千人塚に眠る将兵の悲憤に思ひを致し、 心からその霊を慰めたい〉である。
昭和六十三年十月、 東京池袋の東武百貨店で日本近代文学館主催による 「女性作家十三人展」 が催された。 宇野千代、 樋口一葉、 与謝野晶子、 田村俊子、 野上弥生子、 岡本かの子、 宮本百合子、 平林たい子、 林芙美子、 円地文子、 壺井栄、 有吉佐和子、 佐多稲子の十三人である。
平成二年九月十一日に開会された岩国市議会定例会で、 千代は岩国市名誉市民に選定された。 〈こんなに嬉しいことはございません。 皆様のお蔭です。 なお一層私の心が故郷に近くなったような気がします。 それとともに岩国市出身の作家としての責任を感じております。 これからも元気で一生懸命頑張り、 百歳までも仕事を続けていくつもりです。 岩国の皆様、 どうぞ応援をして下さいませ〉と感想を述べた (「防長新聞」 平二・九・一二)。
なお、 この年の十一月五日、 文化功労者として顕彰された。 千代九十三歳の慶事であった。
平成四年四月二日から一週間、 東京・日本橋の高島屋東京店で千代九十五歳の記念文学展 「宇野千代展―私は幸せ、 昔も今もこれからも」 が開催された。 開幕初日、 高島屋の前で開店を待つ人の列が朝六時頃から並び八千人もが押し寄せ、 高島屋開闢以来の入りだったという。 千代は自らのデザインの桜模様の着物に細帯をしめ、 やはり桜模様の色ちがいのチャンチャンコを羽織って挨拶に出た。
平成四年十月二十三日、 「九十五歳/文化功労者・岩国名誉市民宇野千代先生を祝う夕べ」 が宇野千代先生を祝う会主催、 岩国市後援により岩国国際観光ホテルで開催され、ファンや文化関係者ら約五百人が千代を囲んで和やかなひとときを過ごした。 「もっと長生きしてください」 と言うファンの声に 〈金さん、 銀さんには負けませんよ〉と応じる一幕もあった。
千代は翌日、 岩国錦ライオンズクラブが認証三十周年を記念して、 吉香公園の一角に建立した宇野千代《顕彰碑》の除幕式に出席した。 碑には千代の自筆 「幸福は幸福を呼ぶ」 が大書され、 断章の一節が添え書きされた。
平成六年十月十五日、 玖珂郡周東町中市(現岩国市周東町)の宇野本家屋敷の一角に
「宇野千代先生《文学碑》」 が竣工し、 除幕式が行われた。 「作家 宇野千代先生の文学碑を建立する会」
の努力によるもので、 宇野富子、 佃房子、 河野明子の宇野本家三姉妹が除幕した。
碑面には 『或る一人の女の話』 の一節〈この高森の/廣い往還を/思ひ出すたびに/なぜあの山奥に/ふいにあんなに美しい/町並があつたのか/不思議に思ふ〉が刻まれている。
平成七年十二月、 海竜社から 『私何だか死なないような気がするんですよ』 が刊行された。 千代の生前最後の単行本である。
〈私は、 平成七年の十一月二十八日に満で九十八歳の誕生日を迎えることになりました。 年が明けますと、 昔風の数え年でいいますと百歳になるというわけです。 明治、 大正、 昭和、 そして平成。 長生きといわれる人生を歩いてきたわけです。 私は昔から何でも自慢の種にする癖があるのですが、 これでまた一つ自慢がふえたというわけです。 そうです。 長生き自慢です〉がその書き出しである。 そしてその 「あとがき」 に〈私は、 これからも長生きし、 そして二十一世紀を見たいと念じているのです〉と綴った。
集英社文庫 (平一一・六) の藤江淳子の 「解説」 によると、 題名は単行本のために特別に考えたのではなく、 九十五歳の千代がふと思いついて、 その時の心境を次のように色紙にしたためたものだという。
〈この頃 思うんですけどね 何だか 私 死なないやうな 気がするんですよ はははは は 宇野千代〉。
宇野千代は平成八年 (一九九六) 六月十日午後四時十五分、 急性肺炎のため東京都港区の虎ノ門病院で 「駆け出しお千代」 九十八年の生涯を閉じた。 彼女の生きざまや心ばえを愛し、 その文学に浸った全国の人々に別れを告げて彼岸に旅立ったのである。
四月二十日から五月二十六日にかけての 「宇野千代の世界展」 が山梨県立文学館で開催されていたのだが、
愉しみにしていた参観は叶わなかった。
翌十一日の新聞各紙は 「宇野千代さん死去」 とその一面や社会面・コラム欄等で異例とも思えるスペースを割いて哀悼した。
通夜・密葬が六月十四日、 十五日に東京品川の 「桐ケ谷斎場」 で行われたあと、 二十九日に港区の 「青山葬儀所」 で開かれた《お別れの会》には一千三百人が弔問に訪れた。
名誉市民宇野千代を送る岩国市葬は八月九日、 岩国市民会館大ホールで執行され、 九百人の人々が霊前に白菊を奉献した。 防長新聞 (平八・八・一○) はこの日の模様を大要次のように報じている。
〈祭壇中央には白菊の花に囲まれた宇野さんの遺影。 周囲に宇野さんが生前こよなく愛した桜と錦帯橋を配し、 舞台左右には、 東京の 「お別れの会」 の式場で飾られた高さ四bの枝垂れ桜が二本飾られた。 桜のそばには、 宇野さんが八十八歳の米寿の祝賀会で着用した黒地に桜の花びらの大振袖 (根尾村の桜館展示品) を配置…式典では、 まず存りし日の宇野さんの映像を約十分間上映。 来賓・主催者が登壇の後、 喪主の藤江淳子さんに抱かれた遺骨が入場した…ライトアップされた枝垂れ桜の枝は空調の風で静かに揺らぎ、 天井から桜の花びらがはらはらと舞うという演出の中、 式は静かに進行。 「私は幸福の種をまく花咲かばあさんになりたい」 という宇野さんの元気な声が流れると、 壇上の藤江さんら遺族をはじめ、 場内でも涙をぬぐう姿が見られた。 生前の宇野さんが大好きだったという明治時代の小学唱歌 「桜井の別れ」 が流れる中、 貴舩悦光葬儀委員長以下壇上の三十人が次々と白菊を献花。 親族を代表して藤江さんは 「先生の遺骨は川西の教蓮寺に埋葬します。 ふるさとがこんなに近くなって、 先生はどんなに喜んでおられるでしょう…」 とあいさつした。 式典終了後の午後二時過ぎ、 遺族と貴舩市長ら市関係者、 宇野千代後援会会員ら約百人は、 宇野さんの遺骨・遺影とともに宇野さんの生前愛した錦帯橋を渡った〉。
〈桜も日本一、 錦帯橋も日本一、 こんな日本一の故郷を持っているような幸せ者が、 この日本にまた二人とあるだろうかと思って、 私はとても故郷に感謝しているのである〉 (『私の幸福論』 平五・五海竜社) と言う千代にとって、 桜吹雪といい、 錦帯橋渡橋といい、 何よりの葬送であったに違いない。 七月九日付で正四位勲二等瑞宝章が追贈された。
《謙恕院釋尼千瑛》は今、 川西の生家を指呼の間に望む宇野家菩提寺「呑海山教蓮寺」の墓所に淡墨の桜に寄り添われ、 安らかに眠る。
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